神保町の美容院Berry(ベリー)の歴史

第2章 美容師への挑戦

第2章 美容師への挑戦

このような家族経営の会社です。
私だけでなく、その孫達は体も大きくなった高校生にもなると、
当然のようにバイトと言えばスタンドで働く事しか許してもらえませんでした。
私が大学生だったある日、
先程にも書きましたように、
長男が他界してしまった事で次男である父親が家業の主となりました。
そうしていつの日からか周囲の住民の方や、スタンドのお客様方が、
私の事を、
「社長の息子さん」「次の跡取り」
などと呼ぶようになりました。

二十歳そこそこのまだまだ夢や希望だけで生きているような頃に、
将来のレールを敷かれてしまうその状況は本人にとって非常に狭く、
ちっぽけな道のように感じられました。

もちろん!この商売が嫌いな訳じゃありませんでした。
むしろ車の整備の方の仕事に就きたかったくらいでした。
ですが、そのまま、このまま家業に就職するって事は、
当時は何だかとても辛かった。

そこで、私は社長である父親にお願いしました。
「どうか10年間、「金成」の名前を言っても通用しない世界で、
自分なりに自分自身に自信をつけさせて欲しい。
10年経ったら跡を継ぐため帰ってきます。」と。

「わかった、やってみろ。」

寂しそうにそうひと言だけ言った父親の姿は今でもハッキリ覚えております。

ですが、、、、、。
一体何の仕事が自分に出来るのだろう?
スタンドの仕事しか経験が無い私にとってまずはそこからのスタートでした。

その時フト思い立ったのが、「床屋さん」。
私は中学、高校と全寮制の学校で学びました。
その当時、寮と提携している床屋はどこもセンスが悪く、
寮のお風呂場で髪を切り合いっこするのが当たり前でした。

その当時、全くの素人だった私ですが、何故か評判が良く、
高校に上がってからは先輩からアナウンスで呼び出しが掛かった程でした。

「そうだ!これだ!」

そう思い、高校の卒業アルバムを取り出し、
理容学校に行った同級生に私も床屋さんになりたい旨を相談すると、
3人居た理容師に進んだ同級生が口を揃え、

「これからは男性が美容院に行くのも普通になってくるよ。
 今からやりたいのなら女性も出来る「美容師」になった方がいい。」と。

それで決まった「美容師への道」。
自分で飛び出した以上、中途半端な事は出来ません。

毎日毎日終電ギリギリまで練習。
途中ではバイクの免許も取りバイクで通勤して
終電を気にせず練習に明け暮れました。

お陰様であっという間にアシスタントから「いち美容師」へ。

それからは瞬く間に約束の10年に近づいていきました。
その頃です。
「原油の枯渇」によるスタンドそのものに将来が危うくなってきたのは。
また車自体も「コンピューター制御」が進み、
故障してもガソリンスタンドでササッとは修理が出来なくなり、
直接買ったメーカーへの修理が増えて来ました。

私自身もこの仕事の奥深さ、やりがいで体中溢れておりました。

で、これからどうするか?

(店主1980年代後半~2000年代前半頃)